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縁起説 【解決方法Q&A/疑問攻略/ブログ】


Q&A:縁起説について? 解決方法/評価

・仏教大論議23 大乗仏教の誤り 「空」の曲解 阿含経とアビダルマを同一視する曲解②阿含経の「縁起の法」は、ズバリ法空を説いているのです。諸学者の説を引用させていただきます。「空とは、在来、諸行無常、諸法無我と説かれた縁起の理法に対する新しい表現に他ならない。」(佐々木敬悟、高崎直道、井ノ口泰淳、塚本啓祥著 仏教史概説インド編)「そして、この縁起説が肯定のかたちにおいて仏教の立場を闡明(せんめい)したものであるのに対して、後世大乗仏教に説く空説は、否定のかたちにおいて同じ立場を表明したものと見られる。」(龍山章真著、桜部建補注、インド仏教史)否定のかたちとは、八不中道=不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不去、不来ですが、要するに、同じことを両極から説明しているにすぎないのです。中村 元 先生の文章を再度、引用させていただきます。「元來空観は、仏教の根本思想であり、単に大乗仏教においてのみこれを説くのではない。仏教成立の当初から空の立場は一貫して存続している。すでに二三の学者は原始仏教聖典の中における空相を研究し、般若経の思想はすでに原始仏教聖典の中に含まれていると主張し、その事実を指摘している。さらに近年の研究によれば小乗仏教においてさえも法空が説かれているという。通常言われるように小乗仏教は個人存在の空(人空)のみを説いたのではなくて、法空をもすでに説いていた。したがって小乗の空観と大乗の空観とに強いて差別をつける必要は無いと主張されている。」(空論)阿含経が、「空」の源流なのです。龍樹は、当時のアビダルマ論者達の理論を論破し、机上の空論のごとき煩瑣哲学(はんさてつがく)に対して、縁起の法、阿含経を忘れてはいけないということを、主張したかったのだと思います。阿含経は、低い教えではないのです。五時教判は、全くの誤りであることが、現代仏教学では判明していますので、研究されることをお勧めします。以上、「阿含密教いま」「般若心経瞑想法」から、引用しました。参考になれば幸いです。合掌

・「仏教の科学化」は可能でしょうか。可,不可のわかりやすい根拠を示して、御意見をお願いします。私は釈尊の願いを<私なりに>実現するため、仏教を現代化するべきだと考えています。前回「仏教の現代化」について回答をお願いしましたが、そのようなことは不可である。誰も「釈迦ほど頭がよくない」から、「仏説を『検証』する前に、自分の理解方法が正しいかどうかを考えた方がいいかもしれません」と言う回答をいただきました。 釈尊の頭がいいのは了解できますが、現代科学を理解していたとは信じられません。当然に時代的文化的限界があります。仏説を鵜呑みにしておられる方は、このような疑問はけしからんと考えられるでしょうが、一度「輪廻説」や「法(ダルマ・真理)の絶対化」などに疑問をもつと「検証」したくなるのが「科学的精神」だと思っています。 宗教的信仰は人間を良くも悪しくも強くしますが、「検証」を怠ると独善(我見)に陥ります。釈尊の教えは時代的制約があっても、彼の意図や願望が、個人の幸福や社会の平和をめざす純粋なものなので、多くの人々の支持を得ました。しかし今日の仏教の衰退は、単に後継者(僧侶)達の無理解や怠慢によるとばかりは言えません。問題点は、釈尊本来の思想の中にあると思います。 例えば、「法(ダルマ)の絶対化」とは、釈尊の得た知識(特に縁起説)のことですが、知識自体の分析(知識の心理的機能、知識と思考・言語との関係の分析)はありません。 「225 心を統一したサキヤムニは、(煩悩の)消滅・離欲・不死・勝れたものに到達された、──その理法と等しいものは何も存在しない。このすぐれた宝は理法のうちに存在する。この真理によって幸せであれ。」(『スッタニパータ』中村元訳) この引用で、解脱にいたる理法(ダルマ・真理)とは、釈尊が発見し、創造し、到達した縁起にもとづく「四諦」の知識ということになります。解脱については主観的なもので検証は困難ですが、縁起の知識は検証されなければなりません。そして現代の生物学や生理学は、釈尊が獲得した縁起の理法(知識)が正しいとは見なしません。例えば 「734 およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用によって起こるのである。識別作用(識)が消滅するならば、もはや苦しみが生起することはありえない。」(同上)の例では、生命にとって識別作用の消滅は、生存している限りありえないし、また縁起の理法を明らかにすること自体が、識別作用の結果であることが理解できなかったのです。その他の苦の縁起(集諦)についても同じことが言えます。

・密教でいう「まじない」では、なぜ祈りが成就すると考えられるのでしょうか。仏教の縁起説と、まじないが成就するという思想は、相容れないような気がするのです。「まじない」とは、祈り=人の意思、が、社会、特定の個人、物理的な現象に影響を与えること、を指しているように思います。物理学でいう因果律では、物理的原因→物理的結果に限られています。「まじない」が成立するならば、縁起説では、原因と結果というのが、必ずしも物理的なものに限られず、思い→物理的現象というような、縁起もありうると考えてよろしいのでしょうか。定義そのものが間違っているのかもしれません。中途半端にしか勉強していないので、詳しい方にぜひ伺いたいです。よろしくお願いします。

・密教でいう「まじない」では、なぜ祈りが成就すると考えられるのでしょうか。仏教の縁起説と、まじないが成就するという思想は、相容れないような気がするのです。「まじない」とは、祈り=人の意思、が、社会、特定の個人、物理的な現象に影響を与えること、を指しているように思います。物理学でいう因果律では、物理的原因→物理的結果に限られています。「まじない」が成立するならば、縁起説では、原因と結果というのが、必ずしも物理的なものに限られず、思い→物理的現象というような、縁起もありうると考えてよろしいのでしょうか。定義そのものが間違っているのかもしれません。中途半端にしか勉強していないので、詳しい方にぜひ伺いたいです。よろしくお願いします。

・十二縁起説とは?またどの経典にあるの?

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